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BILLINGHAM STORY

ビリンガムと歩む

― 報道カメラマンとカメラバッグの記憶 ―
2026年5月|ハドレーラージプロと
著者近影|愛用のハドレーラージプロとともに

カメラバッグに求めること

私がビリンガムのカメラバッグを長年にわたって愛用するのは、注文紳士服専門店の息子だった、ということも大きく影響しているのかもしれない。

私は、1986年から1997年にかけ、講談社が発行する写真週刊誌「FRIDAY」の専属カメラマンとして、主に事件、政治経済、スポーツなどの取材報道に従事した。報道カメラマンといえばラフな服装で取材現場に出る人がほとんどだが、私は必ず、ジャケットかスーツにネクタイの姿で取材をする主義だった。父の仕事に敬意を表していたこともあるが、きちんとした格好でいることでほかのカメラマンが入れない場所に入れたり、社会的地位の高い人やパーティーを撮影するときに気後れせずに撮影に集中できるメリットが大きかったのだ。

1993年|皇太子ご成婚パレード
1993年|皇太子ご成婚パレード

私がプロカメラマンになった当時は、報道カメラマンが使うカメラバッグはアメリカ製のT社のものが主流で、バリスティックナイロンは丈夫だが、毎日使っていると洋服が擦り切れるのが早い。次に流行したのはやはりアメリカ製のD社のものだったが、コットンの柔らかさは良いものの、内部にクッションがないので機材の保護に少し不安があった。他社製のカメラバッグもいくつか試してみたが、ほとんどが強度に不安があり、重い機材を入れて走り回るには不向きである。

どこかに頑丈でお洒落で、ジャケット姿にも似合うカメラバッグはないものか……と探していたとき、あるカメラ店で目に入ったのがビリンガムだった。確か205、225、335、445が展示されていたと記憶している。つぶさに見てみると、なかなかしっかりしたつくりである。他社製と違い、擦れる場所やショルダーパッドには厚手の革があしらわれ、補強されているが、その革もブライドルレザーだろうか、見るからに質のよさそうなものだった。縫製もしっかりしていて、酷使に耐えそうだ。

1988|ビリンガムとの出会い

なにより気に入ったのは、ベージュや黒のコットンに、茶色の革があしらわれたそのデザインである。フォーマルには難しいかもしれないが、私のふだんの服装にも合うだろう。手提げができるのも私のニーズに合っていた。肩から下げるだけではジャケットの型崩れが早くなるからだ。少々高価ではあったが、ベージュの205(生産終了モデル・編注)にサイドポケット、それに黒の445を買った。1988年頃のことだったと思う。

それからは、カメラバッグはビリンガムひと筋に使ってきた。取材現場で急な雨に降られても、コットンの間にゴムをはさんだ防水構造のため、バッグの表面がぐっしょり濡れても中の機材にまでは水分が達しない。いつでもどこへでも、どんな天候でも取材に行かなければならない報道カメラマンにとって必須の性能を備えている。しかも、使い始めてから気付いたのだが、大きさのわりに案外軽い。これは、物理的な重量だけではなく、肩にかけたときの重量バランスがよく考えられているためでもあるのだろう。

1993年|小和田雅子さん宅前での取材。ビリンガム445と
1993年|小和田雅子さん宅前での取材。445と。

私が当時、いつもカメラバッグ
に入れていたのは、ニコンF3P、
NewFM2のそれぞれモーター
ドライブ付に、レンズは24ミリ
F2.8、35ミリF2、55ミリ
F2.8、85ミリF2、180ミリ
F2.8、ライカM4に28ミリ
F2.8、ストロボはサンパック
オート25SR2台に積層バッテリー
パック、フィルム20本。栄養ドリ
ンク2本。これがビリンガム445
に余裕をもって入った。

1989|大阪駐在はじまる

1989年から1992年にかけ、私は講談社の大阪駐在カメラマンとなり、大阪を拠点に、東は名古屋から西は九州まで、広範囲のニュースを担当することになった。ここでも多くの事件を取材したが、なかでもビリンガムとともに印象に残っているのは、1990年9月に滋賀県の比叡山で起きた女子大生殺人事件と1991年5月に発生した信楽高原鐡道列車正面衝突事故、同年7月、大手商社イトマンで巨額の金が闇に消えた「イトマン事件」で容疑者として社長以下が逮捕されるのを撮りに行ったときである。

比叡山女子大生殺人事件のときは、ビリンガム445を肩から下げて、ニコンF3Pを肩から、ライカM4を首から下げて、残暑のきびしい山中を、警察の遺体捜索に丸半日、ついて歩いた。発見されたのは夕方近くだったが、死後1週間、腐敗した遺体を見たときの衝撃は忘れられない。このときばかりは、下山するときにカメラバッグの重さをずっしりと感じた。遺体を撮ったフィルムは、これを誌面に掲載すると被害者に気の毒だし、何より編集部も使わないだろうと判断して処分した。

イトマン事件は1990年頃から「謎の経済事件」として話題になり、「全てを知る男」とされていた専務が謎の急死を遂げるなど、気味の悪い事件だった。専務が怪死したときは葬儀を取材したが、社長以下、事件の主要登場人物がずらりと居並ぶ機会にもかかわらず、取材に来たカメラマンが私一人、ということにいっそう気味の悪さを感じながら撮影したのを憶えている。結果的にこれは私の単独スクープとなったのだけれど。

そんなイトマン事件の取材中に発生したのが信楽高原鐡道の列車衝突事故である。

1991|平良さんとの出会い

私は、大阪では記者を伴わない単独行動が多かったが、自分で車を運転すると現地に着いたとき、駐車場を探して停める時間のロスが生じるし、運転しながらでは取材メモの整理もできない。だから、取材には基本的にタクシーを使った。雑誌が売れていた時代で、タクシー代を1日に数万円使っても、それが取材に必要なものである限り、出版社の経理部からも咎められることはなかったのだ。

まだ携帯電話の普及していなかった時代。日本で初めて全部の車両に自動車電話を装備した「さくらタクシー」というタクシー会社が大阪にあり、なかでも選りすぐりの優秀な運転手が私の専属のような形でついてくれていた。

その筆頭が、高校時代は野球部で活躍したという、平良仁宏さんだ。

週刊誌専属の報道カメラマンは基本的に年中無休、24時間営業である。イトマン事件の取材の間は、毎朝6時にタクシーが迎えに来て、正午まで大阪地方検察庁前で張り込みをする。正午までに動きがなければ、ほかの取材に向かうのが通例だった。

1991年5月14日、例によって平良さんの車で大阪地検前で張り込みをしていると、車載テレビから「信楽高原鐡道で列車が正面衝突、負傷者がいる模様」というニュース速報が流れた。鉄道で正面衝突事故? と思い、編集部に電話をかけるが、まだ午前中のせいか誰も出ない。誰かが出社してから編集部の指示を待つか、と思っていると、平良さんが、

「これはたぶん大事になってると思う。絶対行ったほうがいいですよ。行って、もしたいした事故でなかったらその分の代金はいらんから、とにかく行きましょう」

と言ってくれた。そして、名神高速に乗り、「よっしゃ行くで!しっかりつかまっときや!」と車を走らせて、栗東インターを出たところで、事故現場に向かう緊急車両の列に出くわした。平良さんはサイレンを鳴らし、赤色灯を回転させている1台のパトカーの後ろにピッタリつくと、赤信号もそのまま、パトカーについて通過する。前のパトカーの警察官がチラチラと振り返ってこちらを見るが、事故現場に向かっているのだから交通違反で捕まることはあるまい。私は車の窓から手を出して報道腕章とプレスカードを振り、次いで前のパトカーから見えるように助手席のフロントガラス手前に講談社の社旗を掲げた。それを見て、警察官も「仕方ないなあ」というように苦笑いして「了解」と小さく手を挙げてくれた。

1991年|信楽高原鐡道列車衝突事故
1991年|信楽高原鐡道列車衝突事故

おかげで誰よりも早く事故現場にたどり着けたが、驚いたのは衝突した列車のすさまじさである。正面衝突した列車がへしゃげてまるでイモムシのように地面から浮いている。決まったレール上を走る列車は自動車と違い、衝突安全性など全く考慮されていないのだろうな、と思った。車内にはまだ多くの負傷者や死者が取り残されているようで、警察や消防が怒鳴りながら救助活動を続けている。死亡が確認された人の遺体が、列車にはさまれて出せないらしく、「切断するしかない!」という声も聞こえる。犠牲者の遺体は次々と近くの学校の体育館に運び出される。大怪我をした人のうめき声も聞こえる。この事故による死者42名、負傷者628名。まさにこの世の地獄絵図だった。

イトマン事件で河村社長以下が逮捕されたのはその2か月後のことである。どんな取材でも、つねにビリンガム445が私のお供だった。

1992|餞別のビリンガム225

1992年4月、大阪市内で開催されたファッションショーを取材した私は、照明がめまぐるしく変わるなか、早足で歩いてくるモデルにMFでピントを合わせることに苦労して、初めてオートフォーカスのニコンF4Sを2台購入した(結果的にF4SのAFは仕事の役には立たなかったが)。そして6月、2台のニコンF4Sに予備のニコンFE2、ライカM4を携えて、小説「天国にいちばん近い島」で一躍ニューカレドニアを有名にした作家・森村桂さんとニューカレドニアに取材旅行に行った。このとき持参したレンズは、フィッシュアイ16ミリF2.8が増えた以外はふだんの取材と変わりない。

ともかく、新しいフラッグシップカメラを2台導入して、大船に乗ったつもりで赤道を超えて南半球まで赴いたのだが、2日目にヘリコプターからサンゴ礁を空撮したとき、なんとF4Sが2台とも動かなくなってしまった。残りの6日間、予備のカメラで撮影するしかなかったが、冷や汗の出るような体験だった。帰国してすぐ、ニコンにF4Sを修理に出したが、故障の原因はわからないとのことだった。

1992年|ニューカレドニア取材
1992年|ニューカレドニア取材

そして1992年8月、夏の甲子園、高校野球選手権大会の取材を最後に、私はまた東京に戻ることになる。甲子園大会の決勝の日、すなわち私の大阪での最後の仕事の日、いつものように新大阪駅から東京へフィルムを送り、平良さんのタクシーで帰宅する途中、平良さんが突然、御堂筋の大丸前に車を停め、

「ちょっと待っといてや」

と言って車を降りた。10数分後、車に戻ってきた平良さんの手には「カメラのナニワ」の大きな紙袋。平良さんは、

「この4年間、楽しかったで。これ、われわれ運転手からの餞別や」

と言って、紙袋を私に手渡した。袋のなかには、真新しいベージュのビリンガム225が入っていた。

東京に戻った私は、以前と変わりなく取材の仕事を続けた。平良さんからもらったビリンガム225は、思いのほか使いやすかった。小さなバッグに、これまでとさほど変わらない機材が入るのだ。モータードライブのついたニコンF3PまたはF4SとNewFM2、24ミリF2.8、35ミリF2、55ミリF2,8、85ミリF2、180ミリF2.8、ストロボ2台。ライカだけは入らないので首からかけた。1993年の皇太子婚約内定で小和田雅子さん宅の前で待機するときなど、AF80−200ミリF2.8が必要で機材の多い日はは445を使ったが、ふだんは225である。

1995|阪神・淡路大震災取材

1995年|『FRIDAY』阪神・淡路大震災特集号表紙
1995年|『FRIDAY』阪神・淡路大震災特集号表紙
1995年|阪神・淡路大震災3日目
1995年|阪神・淡路大震災3日目

1995年1月17日――。当時、東京の西荻窪に住んでいた私は、早朝の編集部からのポケットベルで叩き起こされた。「神戸で大地震。すぐに現場に飛べ」という。大阪出身で神戸にも土地勘があるということで真っ先に声がかかったらしい。呼び出されれば5分で家を出られるよう準備はしている。急いで文京区音羽の講談社フライデー編集部に向かい、まだ状況はよくわかっていないものの、仮払金200万円と富士のISO800のカラーネガフィルム200本、そして当時はまだ個人所有ではなく編集部の備品だった、アナログ回線とデジタル回線の2台の携帯電話を受け取って、羽田空港に向かう。この頃の携帯電話はアナログからデジタルへの移行期で、アナログ回線のほうがカバー範囲が広かったからだ。

現地で動きやすいように機材は最小限にしたい。私は、平良さんにもらったビリンガム225にニコンF4S、NewFM2、24ミリF2.8、55ミリF2.8、80−200ミリF2.8、そしてストロボ2台を入れ、28ミリF2.8をつけたライカM4を首から下げた。入りきらない大量のフィルムや現金はリュックに詰めた。

羽田空港の出発カウンターで聞いてみると、伊丹空港は稼働していて、飛行機も運航されているという。そこで、いちばん早く伊丹に着く方法を調べてもらうと、まず高知空港行きの便に乗り、そこで伊丹行きに乗り継げば、直行便より早く着くとのことで、そのチケットをとった。

現地でどう動くか。関西ではタクシー運転手の平良さんが頼りだ。だが、神戸はもちろん大阪にもなかなか電話はつながらず、豊中市の平良さんの自宅に何度も電話を試みたがかからない。半ばあきらめかけていたところ、飛行機に搭乗する直前にダメ元で公衆電話からかけた電話がつながった。電話口に出たのは平良さんの奥さんである。

「主人やったら神立さんが来るはずやから行ってくる、言うて出かけていきましたけど」

平良さんの家も被災して、家のなかが大変なことになっているという。にもかかわらず、私が来ると先読みして伊丹空港に向かったとのことだった。急いで平良さんのタクシーの自動車電話にかけると、こんどもうまく繋がった。

「来るんやろ? 何時の飛行機? ほないつものところで待ってるわ」

と平良さん。高知空港に着き、ターミナル内を走って出発時刻ぎりぎりで伊丹行きに乗り換え、伊丹空港に着くと、その先の移動手段のない人たちが来るあてのないタクシーを待って長蛇の列をつくっている。

平良さんの車は、空港ターミナルを出た左端の、いつも取材で乗るときと同じ場所で待ってくれていた。プレゼントしてくれたビリンガム225を肩から下げて現れた私を見て、平良さんの表情が一瞬、ほころんだ。

平良さんは私を待つ間、ラジオを聴いて、交通規制や被害状況の詳細な状況のメモをとってくれていた。編集部を発つとき、「2人」とされていた死者数が、羽田空港を発つときには「20人」とされ、私が伊丹空港に着いた時点では「200人」に膨れ上がっている。編集部からの指示で西宮、芦屋と取材して、神戸の三宮に着いたときにはもう日が暮れていた。神戸の中心となる繁華街だが、灯りはもちろん人の姿もなく、凄いような月の光が廃墟と化した街を照らしていた。ビルが傾いたり倒れたりしている。倒れたビルの下敷きになった、ヘッドライトがついたままの軽自動車がクラクションの音を断末魔の叫びのように響かせている。あちこちで非常ベルの音がけたたましく鳴っている。商店街に入ると、アーケードは落ち、商店のシャッターも壊れて、商品棚が崩れた店内が丸見えになっている。それは、見たこともない街の姿だった。

三宮から元町にかけて取材し、さらに柱が折れて屋根だけが見える生田神社の社殿を撮影したところで、私は西の空がほんのり赤く染まっているのに気づいた。平良さんの車でとりあえず西に向かう。途中、村野工業高校があったので、避難所になっているかと思い体育館に入ってみたが、屋内はところどころに蠟燭が灯っているだけで静まり返っている。暗闇に目が慣れてよくよく見ると、床には毛布に包まれた遺体が並んでいた。持っていたペンライトの光で入口に貼られた紙を見ると、ここに収容された遺体のうち、氏名がわかる人の名前が書かれていた。そこにいた人に聞くと、空が赤く見えたのはどうやら長田区の鷹取駅周辺らしい。さすがにストロボを焚いて遺体を撮る気にはなれず、車に戻って平良さんに長田へ向かうように頼んだ。主要道路は交通規制で入れないが、そこは道を熟知するプロのドライバー、規制線を巧みに避けて、鷹取駅の一キロほど北側までつけてくれた。私はビリンガム225を担いで炎に包まれた街に入っていった。

1995年|阪神・淡路大震災発生当日、長田区
1995年|阪神・淡路大震災発生当日、長田区

地震の発生は火曜日。金曜発売の「FRIDAY」の校了は水曜日の夕方である。締切りに間に合わせるためには伊丹空港を昼に発つ羽田行きの便にフィルムを載せないといけない。私は平良さんの、「明日の朝8時までに神戸を出たら昼に間に合わせます」との言葉を頼りに、業火の長田区を夜通し歩き回り、撮影をした。煙とともに、いろんなものの焼けるいやな臭いが立ち込めている。避難したものか人影はほとんどないが、ところどころ、自分の家が焼けているのを放心したように眺めている人がいた。

翌朝、もう一度三宮で倒壊したビルを撮り、海沿いの国道は渋滞が酷いので六甲山を越える迂回路をとり、北側から伊丹空港に時間ぴったりに着いて航空貨物でフィルムを送る。羽田空港の貨物カウンターでは、編集部のアルバイトが待機していて、フィルムを受け取るやタクシーで編集部に運ぶ、いつもの仕事と同じ流れである。

1995年|阪神・淡路大震災発生翌日早朝
1995年|阪神・淡路大震災発生翌日早朝

それから約1週間、被災地に残ってほぼ不眠不休で取材をした。その後も折に触れて神戸に通ったが、そんななか、3月20日に突然発生したのが「地下鉄サリン事件」(オウム事件)である。

それまで日本では例を見ない、都心を狙った薬物による無差別テロ。当初よりオウム真理教の関与が疑われ、私たち雑誌のカメラマンもオウムの教団幹部を張り込んだり追跡したり、東京の青山総本部、山梨県の上九一色村のいわゆる「サティアン」、静岡県富士宮市にあった拠点などに交代で詰めたり、またもや不眠不休の取材が続いた。2日間、ほぼ寝ずに富士宮で張り込んで、夜中の11時頃に帰宅してシャワーを浴びて、ようやくひと眠りできると思ったらまたもポケットベルが鳴り、いまから青山総本部に行ってくれ、という具合である。ふだんならバッグはビリンガム225で間に合うのだが、オウム事件では替えの下着やタオルを入れる必要上、445や、新たに買った550を使った。

5月16日に教祖以下が逮捕されたことで事件の取材は一応、一段落するのだが、その少し前から、私は体調に異変を感じていた。体が極度にだるく、食欲がない。食べものの匂いがひどく鼻につき、白飯の匂いでさえ体が受けつけない。体重も急激に減っていた。事件が落ち着いてから病院に行ったところ、急性肝炎と胃潰瘍ということで、

「この調子で仕事を続けていたら、あなた死ぬよ。しばらく体を休ませたほうがいい」

との医師の言葉に、自分の仕事のあり方を見直さざるを得なくなった。体力には自信があるほうだったが、それでもさすがにここまで休みなく現場取材を続けていると体がもたない。なんとか、自分のペースでできる企画記事のネタはないものか――。

ちょうどそんなときに出会ったのが、「零戦の里帰り飛行」だった。アメリカに唯一、オリジナルエンジンで飛行可能な零戦があって、この年、日本の空を飛ぶというイベントがあったのだ。そして、そこで元零戦パイロットと出会ったことをきっかけにして、戦争体験者のインタビュー取材と撮影を始めた。

それまで、報道の仕事はほぼニコンやライカなど、35ミリ判の小型カメラで撮っていたが、年配の戦争体験者の肖像を撮るために、二眼レフのローライフレックス3.5Fを買った。カメラバッグは、ローライフレックスがすっぽり入る、縦長のビリンガム・パッキングトン(生産終了モデル・編注)を買った。ライティングもおろそかにできないから、大きめのストロボにライトスタンドなど、照明機材も新たに購入した。

1997|フリーランスへ

2005年|ビリンガム・パッキントン
2005年|ビリンガム・パッキントン

1997年にフリーとなり、同年、初めての著書『零戦の20世紀』を出版したが、週刊誌の仕事も並行して続け、1998年には和歌山毒入りカレー事件の取材や、2000年までは皇室や相撲など、入れるカメラマンの人数が限られている場合に各社を代表して撮影する、日本雑誌協会の代表取材カメラマンも務めた。

2000年に週刊誌の世界からは足を洗い、自分のライフワークである戦争体験者の取材を続けるとともに、「月刊写真工業」「アサヒカメラ」「日本フォトコンテスト(現・フォトコン)」などの写真・カメラ専門誌で仕事することが増えた。

「月刊写真工業」では、増刊号でのレンズテストなどとともに、本誌では「撮るライカ」という4ページの連載を受け持たせていただいた。当時、空前のライカブームのなか、貴重品や骨董品として扱われがちなライカを使って写真をどんどん撮ろうよ、という趣旨の連載で、このためにライカで街頭スナップを撮る機会も増えた。そんな用途に重宝したのが、ビリンガム・ハドレーである。小型のカメラバッグだが、レンズを付けたM型ライカ2台と交換レンズ2本、フィルムに財布や名刺入れなど身の回りのものが入った。

「撮るライカ」はその後、光人社(現・潮書房光人新社)で単行本化(全2冊)され、ライカブームのなかで発売された関連書籍のなかではいちばん売れたと聞いている。

神立尚紀著『撮るライカ I・II』

また、「日本フォトコンテスト」誌で2002年1月号から始まった、毎月一人の写真家を紹介する「一生懸命フォトグラファー列伝」は、2026年12月号で通算25年、300回の長寿連載となっている。

フィルムからデジタルへ

その間、カメラの世界もめまぐるしく変わった。フィルムからデジタルへ、デジタル一眼レフからミラーレス一眼へ。

機材の変化にともない、高性能機や高性能レンズがサイズアップしてしまい、カメラバッグの使い方も変わってくる。フィルム時代にはビリンガム225でも必要十分な機材が入ったが、デジタル以降の高性能高級レンズを収納するには、バッグの中仕切りを変えないと入らない。たとえば、フィルム時代に一区画8センチや9センチの中仕切りで2列に入った交換レンズが、いま、大口径レンズなら11センチの中仕切りで1列しか入らない。いきおい、ビリンガム550などの大型バッグの出番が増えるが、いま私が仕事に使っているニコンZ8(バッテリーパック付き)に35ミリF1.2、50ミリF1.2、85ミリF1.2の重量級レンズを収納するにはそれでも無理があり、レンズのどれかをF1.8のスリムなものにしないと入らない。望遠ズームや超ワイドズームを合わせて持つとなるとなおさら、カメラバッグに収納するにも取捨選択の知恵がいる。とはいえ、肩掛け型バッグが550や555より大きくなるのは持ち運びの面から現実的ではない。

2025年|仕事用Nikon Zシリーズとビリンガム550
2025年|仕事用Nikon Zシリーズとビリンガム550

そこで、私が近年愛用しているのが、ビリンガム・イベンターとハドレーラージプロだ。持ち歩くカメラボディを1台に割り切れば、ハドレーラージプロなら50ミリF1.2に、70−200ミリF2,8、26ミリF2.8、または50ミリF1,2、85ミリF1.8と24−120ミリF4、それにストロボが余裕で入り、サイドポケットにもこまごまとしたものが入る。インタビュー、ポートレート撮影には十分である。イベンターはサイドポケットがつかないが、それでもレンズの明るさを欲張らなければ(1.2のレンズを1.8や1.4にすれば)ハドレーラージプロと同様、仕事に十分な機材は入る。なによりこの2種類のバッグは薄めにできているので、東京の満員電車でも邪魔になりにくいのだ。

2026年|ビリンガム・ハドレーラージプロ
2026年|ビリンガム・ハドレーラージプロ

カメラやバッグのセレクトは仕事内容によって変化する。ときに動画と写真、両方の注文があったりすれば、550を2つ持ったりすることもある。気軽な街歩き撮影などなら、ファッションバッグにも見えるミニイベンターだ。

そんなわけで、私のビリンガムは仕事や用途に応じてどんどん増えていき、ついには普段歩きのトートバッグやノートパソコン用のスリーブまでビリンガムで揃えるようになった。気が付けば、我が家には40個ほどのビリンガムバッグがあって、それぞれに活躍してくれている。

初めてビリンガムのバッグを買って38年、いまとなってはビリンガムのない生活は考えられないほどだ。たぶん、カメラがいかに進化しても、私は死ぬまでビリンガムを使い続けるだろう。ビリンガム社にはこれからも、ハイクオリティでユーザーの立場に寄り添った、持つことが嬉しくなるような商品を作り続けてほしい。

2016年|ビリンガム・パッキントン

神立尚紀−こうだち・なおき

1963年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部写真学科で写真家三木淳、木村惠一、和田光弘各氏に師事。卒業後、講談社「フライデー」専属カメラマンを務め、主に事件、政治、経済、スポーツ、災害などの取材報道に従事。1995年、戦後50年を機に戦争体験者の取材を始め、以後、インタビューした旧軍人、遺族は500人を超える。1997年よりフリー。2007年から2015年までは東京工芸大学非常勤講師として「フォトジャーナリズム」の講義を受け持った。

著書に『祖父たちの零戦』『戦士たちの遺言』『太平洋戦争の真実』『図解・カメラの歴史』(講談社)、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)、『太平洋戦争 空白の史実』『太平洋戦争 運命の瞬間』『撮るライカ1/U』」(潮書房光人新社)、『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』『完全版 零戦最後の証言(全3巻)(光人社NF文庫)、『一生懸命フォトグラファー列伝』(日本写真企画)など。

NHK朝ドラ『おひさま』(軍事指導)、『あんぱん』(戦時考証)、NHKドラマスペシャル『真珠湾からの帰還』(監修)、NHKドキュメンタリー『零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜』(監修)『BS世界のドキュメンタリー チャーチルを裏切った男』(日本語版監修)など、映像作品の考証、監修も手がけている。

記事に登場するビリンガムモデル|現行モデル

編集後記

これまでに、ほんの数えるほどしかお引き合いのなかったビリンガムのハイエンドカメラバッグを、数日のうちに同じお客様からご注文いただいたのは、数年前の年の瀬でした。

色違いではありましたが、これはお客様のお手違いだろうとご連絡したところ、「注文に間違いはありません。ご心配をおかけしました」との丁重なご返答をいただきました。これが、私と神立さんとの出会いでした。

その後、横浜のビリンガム展示会へお越しいただき、ビリンガムバッグとともにプロカメラマンの第一線で長年活躍されてきた神立さんの貴重な経験談に触れる機会をいただきました。

このストーリーを、ビリンガムユーザー、そしてカメラ・写真を愛する方々と分かち合いたい。そんな思いから神立さんに執筆をお願いし、このフォトエッセイ「ビリンガムと歩む」として実を結びました。

このエッセイから浮かび上がる、神立さんのファッションや撮影スタイルへのこだわり。そのなかで、ビリンガムのカメラバッグを38年にわたり愛用いただいてきたことを、販売店として、そしてひとりのビリンガムファンとして、とてもうれしく、誇らしく思います。

また神立さんとお会いできたら、今度はカメラのこと、撮影のことを、もっと詳しくお話を伺えればと思っています。

神立さん、このたびは素晴らしい原稿と貴重な写真をお寄せいただき、本当にありがとうございました。

オリエンタルホビー 小倉英三郎